文化財本島周辺離島

組踊「忠臣蔵」作者上地太郎生誕の地

①見どころ
 組踊「忠臣蔵」の作者である上地太郎の生誕の地です。

②概要
 上地太郎は屋号ウィチウシャアガリで、姓は東江で童名はウシャと呼ばれていました。上地は住まいの地名で、太郎は江戸上りのみやげに付けた名ではないかといわれています。1806年頃に、伊江島の東江村で出生したと推定されています。1840年、34歳の頃に西江村の安田某の協力を得て、大阪竹本座で初演された「仮名手本忠臣蔵」を基に、場の設定や登場人物、琉球古典音楽などを取り入れ、組踊「忠臣蔵」を作成したといわれています。組踊「忠臣蔵」の出来映えから推して、ヤマトとウチナー(沖縄)の文化に造詣が深く、知に秀で感性豊かな人物であったことは確かです。忠臣蔵は、自作の組踊であったので、旧藩時代から会所踊りとして上演されました。1890年には、百姓踊りとして東江上で初演され、その後、現在の村踊りへと継承されました。ここは上地太郎の生誕の地ですが、現在は、ガジュマルが残るのみとなっています。

③ヒストリー
 1559年頃、伊江王子朝義が伊江島の按司総地頭に任ぜられ、伊江御殿の始祖となりました。1792年には伊江朝叙親方(三司官)も伊江島の総地頭になり、伊江殿内(後の川平殿内)の始祖となりました。以来、1879年の琉球処分まで、両総地頭家と伊江島の関係は続きました。その間、伊江御殿・川平殿内の両家で、奉公していた伊江島の若者の中で優秀な者は、伊江按司や川平親方らがヤマト旅の際にお供の一人として随行を許可されました。彼らは旅の道中で見聞した地域や江戸の文化を吸収して持ち帰り、伊江島の教育・文化の振興に大きく功績を遺しています。伊江島で今でも謡われ踊られているヤマトことばの民謡と舞踊は、御殿・殿内務めのヤマト戻りの先人たちの功績です。上地太郎も、そうした奉公人の一人でした。

④ワンポイントアドバイス
 上地太郎が伊江村の芸能文化に大きな功績を遺したことから、2002年3月14日に村の史跡に指定されました。

スポット情報

住所

Map Marker 〒905-0501 伊江村東江上147

アクセスマップ